☆よもやまばなし  通訳かけだしの頃

米国への留学から帰国し、しばらく、神戸の国際学校で校長秘書としての仕事をしておりましたが、主な業務は、当時、導入されたばかりのコンピューターを使った成績表作り、学校のイベントの補佐、生徒・先生の管理、日本人のご両親のための会議通訳、などなど、毎日、バタバタとしていました。が、心のどこかで、将来は、本格的に通訳や翻訳の仕事をしてみたいという希望があり、大阪にある通訳学校に通っていました。 通訳を斡旋するエージェントに登録したところ、とても、興味のある仕事を紹介してくださる事になり、フルタイムの仕事ではなかったのですが、将来のキャリアを考えて転職することを決意しました。まず、最初に、通訳として派遣されたのが神戸製鋼所のインターナショナル・トレーニング・センターでした。 リビア、ブラジル、シンガポール、カタールなど、色々な国々からの研修生に対するレクチャーや工場視察(ヘルメットをかぶって通訳していました)の通訳業務がメインの仕事でした。 私の担当は、精留塔、液体窒素・アルゴンガスの製造、熱交換器などで、技術通訳について、徹底的に勉強した時期でもありました。(高校時代に使っていた、化学の教科書が助かりました。まさか、この教科書を、また、開く事があるとは思ってもいませんでした..笑) 最初は、意味の分からない事ばかりでしたが、エンジニアの方々が、一生懸命、教えてくださり、その後の技術通訳・翻訳の礎になりました。 神戸製鋼所では、エンジニアの講師の方々の情熱、日本の技術集団の素晴らしさを肌で感じ、多くの事を学びました。また、通訳仲間と神戸製鋼のラグビーチームの試合に応援に行くなど、とても、充実した2年間を過ごすことができました。そして、この仕事をきっかけに、通訳の仕事にますます、没頭するようになりました。また、仕事が終わってからの、仲間と交わすビールの爽快感を知ったのもこの頃でした(笑)  つづく